『夜は短し歩けよ乙女』(森見登美彦 角川文庫)感想
青春時代に悔いがあるか?と聞かれたら、大抵の人はなんと答えるであろうか。
僕は即答でこう答えるだろう。悔いしかないと。
本作はそんなバラ色の青春時代とは無縁だった人にぜひ読んでもらいたい作品だったりする。
なんといっても本作の主人公はとにかくうだつが上がらない。
入学以来決して上がらず、今後上がる見込みもまるでない学業成績。大学院へ進むという逃げ口上を高々と掲げて、先送りしただけの就職活動。機転もきかない、才覚もない、貯金もない、腕力もない、根性もない、カリスマ性もない、愛くるしくて頰ずりしたくなる子豚のように可愛げのある男でもない。
本人がこうやって内省するほど、イケてない男なのである。
ただこうやって自己保身の言い訳に長けてるところは、まるで自分を見てるよう。
彼に感情移入してしまうのも事実なのだ。
本作はよくあるボーイミーツガールの恋物語なのだが、とにかく主人公の男のアプローチの仕方が遠回りなので笑ってしまう。
いきなりアプローチをしても玉砕すると考えた彼は、とにかく外堀を埋めていく作戦を実行する。
2日に一度は偶然を装った出会いを果たし、なるべく彼女の目に留まって運命を感じさせる作戦(通称ナカメ作戦)や、彼女と同じ古本市に出かけ、偶然を装って同じ本に手を伸ばし、そこから会話を広げる作戦。
自身が体調不良であることを、同じく所属する部活のメンバーにそれとなく流し、彼女が見舞いに来ることを願う作戦などなど。
外堀を埋めて埋めて埋め続けるだけなのである。
そのことは、友人である学園祭事務局長にも見抜かれていて
「それで、あの子とは何か進展あったの?」
「着実に外堀は埋めている」
「外堀埋めすぎだろ? いつまで埋める気だ。林檎の木を植えて、小屋でも建てて住むつもりか?」
「石橋を叩きすぎて打ち壊すぐらいの慎重さが必要だからな」
「違うね。君は、埋め立てた外堀で暢気に暮らしてるのが好きなのさ。本丸へ突入して、撃退されるのが恐いからね」
と、本質をつかれてたじだじになってしまうのだ。
さてさて、主人公の私がそこまで惚れ込む黒髪の乙女とはどんな人物であるか。
それがまぁとっても個性的なのである。
好奇心旺盛で夜の街先斗町を突き進んでいく黒髪の乙女。象のおしりの模型を喜んで撫でたり、わくわくすることがあると二足歩行ロボットの足踏みをする。決して弱さはなく、酒にはめっぽう強く、セクハラ親父には慎み深い「おともだちパンチ」を喰らわせて池へ叩き落とす強さも持っている。出店で等身大の緋鯉をもらっても尻込みせず身につけ、鼻毛が1メートルも伸びる男が出るアマチュア映画を見て涙する。
その姿は潔く美しい。そう、表題の「夜は短し歩けよ乙女」とは彼女のことである。
いや、個性的なのは彼女だけに限らない。登場してくるのはおかしな人ばかりだ。
片思いを成就させるため、願掛けとして一年間パンツを履き替えない男、パンツ総番長。
職業不詳でひょうひょうとしている自称天狗、樋口先輩。他人の宴席に無断で上がり込み、ただ酒を呑み、人の顔を舐め回す羽貫先輩などなど。
どこかがおかしい、何かがおかしい。しかし不器用でやたら真っ直ぐなだけなので、みててほっこりする人たちばかりなのである。
そもそも作品に出てくる物も取り巻く環境も奇々怪々、めくるめく珍宝館といった有様である。
古今の性にまつわる文化遺産を収集する助平集団「閨房調査団」(閨房っておくさまの寝室のことね。そこを調査するとはなんたる破廉恥な)、陰謀にみちた出生を遂げ、いまも先斗町の飲み屋にて秘密裏に卸し続けられるまぼろしのお酒「偽電気ブラン」、学内のいろいろなところに出没し通行人に鍋を振る舞う「韋駄天コタツ」、虚実ないまぜに学生サークルの悪事を暴くゲリラ演劇「偏屈王」
などなど、複雑怪奇なファンタジー世界が小説の中で広がっている。
でもそれは荒唐無稽な世界ではないことだけは特筆しておきたい。
ありふれた普通の世界が、ちょっとずれただけである。見慣れた街の裏側が実はこうなってるんじゃないのか、そう思えてしまう妙なリアリティがあるので、ぐいぐいと引き込まれてしまう。
行動のおかしい登場人物もひたすらまっすぐで、ただ不器用なのだ。単にずれてるだけなのだ。いやずれてるからこそ面白くかっこいい。
そう考えると僕の灰色だったキャンパスライフも、僕の不器用な生き方も実は七色に輝いていたんじゃないかと肯定したくなってくる。
さてさて、小説の本題である外堀を埋め続ける臆病な男と、夜の街を行くがごとくまっすぐな黒髪の乙女との恋愛。果たしてうまくいくのか。
それは物語の本筋なので触れないでおくが、
代わりに、物語の終盤、彼と脳内にはびこる臆病な詭弁者たちの対決を引用してみる。
「世の風潮に流されるのは、断固反対である」
「孤独を癒したいだけなのではないか、この卑怯者め。歯を食いしばれ」
「自分の未来が見えないものだから、彼女に逃げているだけではないのか」
「慎重に! まずは彼女の本心を確かめるのだ、なるべく迂遠な方法で!」 「君、女性と付き合うなどという繊細微妙なことができるの? 面白いの?」 「乳の一つや二つ触ってみたいものだなんぞと、猥褻なことで頭がいっぱいなのではないか?」
こうした声に対して、このように大演説を繰り広げる。
「しかし、そこまで徹底して考えろと言うのならば、男女はいったい、如何にして付き合い始めるのであろうか。諸君の求めるが如き、恋愛の純粋な開幕は所詮不可能事ではないのか。あらゆる要素を検討して、自分の意志を徹底的に分析すればするほど、虚空に静止する矢の如く我々は足を踏み出せなくなるのではないか。性欲なり見栄なり流行なり妄想なり阿呆なり、何と言われても受け容れる。いずれも当たっていよう。だがしかし、あらゆるものを吞み込んで、たとえ行く手に待つのが失恋という奈落であっても、闇雲に跳躍すべき瞬間があるのではないか。今ここで跳ばなければ、未来永劫、薄暗い青春の片隅をくるくる回り続けるだけではないのか。諸君はそれで本望か。このまま彼女に想いを打ち明けることもなく、ひとりぼっちで明日死んでも悔いはないと言える者がいるか。もしいるならば一歩前へ!」
果たしてここまで不器用な恋愛は成就するのか。それはぜひ本書を手にとって見届けてほしい。
最後に、森見登美彦作品の文章の面白さについて記しておきたい。
あー読んでほんとに小気味よい。良い文章は素敵なお酒のように人を酔わせる魔力がある。
いくつか引用したが、まだまだ足りぬ。もっともっと文章の転記したいが、自重することにする。なぜなら全文転載しそうだからである。
なので1万歩譲って、一番好きな箇所だけ最後に引用しておく。
「父上が昔、僕に言ったよ。こうして一冊の本を引き上げると、古本市がまるで大きな城のように宙に浮かぶだろうと。本はみんなつながっている」
「何のこっちゃ」
「あんたがさっき見てた本たちだって、そうだな。つなげてみようか」
「やってみろ」
「最初にあんたはシャーロック・ホームズ全集を見つけた。著者のコナン・ドイルはSFと言うべき『失われた世界』を書いたが、それはフランスの作家ジュール・ヴェルヌの影響を受けたからだ。そのヴェルヌが『アドリア海の復讐』を書いたのは、アレクサンドル・デュマを尊敬していたからだ。そしてデュマの『モンテ・クリスト伯』を日本で翻案したのが「萬朝報」を主宰した黒岩涙香。彼は「明治バベルの塔」という小説に作中人物として登場する。その小説の作者山田風太郎が『戦中派闇市日記』の中で、ただ一言「愚作」と述べて、斬って捨てた小説が「鬼火」という小説で、それを書いたのが横溝正史。彼は若き日「新青年」という雑誌の編集長だったが、彼と腕を組んで「新青年」の編集にたずさわった編集者が、『アンドロギュノスの裔』の渡辺温。彼は仕事で訪れた先で、乗っていた自動車が列車と衝突して死を遂げる。その死を「春寒」という文章を書いて追悼したのが、渡辺から原稿を依頼されていた谷崎潤一郎。その谷崎を雑誌上で批判して、文学上の論争を展開したのが芥川龍之介だが、芥川は論争の数ヶ月後に自殺を遂げる。その自殺前後の様子を踏まえて書かれたのが、内田百閒の『山高帽子』で、そういった百閒の文章を賞賛したのが三島由紀夫。三島が二十二歳の時に会って、『僕はあなたが嫌いだ』と面を向って言ってのけたのが太宰治。太宰は自殺する一年前、一人の男のために追悼文を書き、『君は、よくやった』と述べた。太宰にそう言われた男は結核で死んだ織田作之助だ。そら、彼の全集の端本をあそこで読んでいる人がある」
この文章が好きで何度も読み返している。そうか僕らはたった一冊の本を読むだけで、広大な世界の旅をしたことになるのか。
はー。読書ってほんとに楽しい!!
椎名林檎の「幸福論」
椎名林檎のデビュー曲「幸福論」について少し語ってみる 。
「幸福論」には実は、2つのバージョンがあるの知ってるかな?
よく知られているのはアルバム収録の方だと思うのだけど、
シングルでは、こんなゆるふわビートである。
実は、このシングル.verは本人が望んで発表した曲ではなくて、レコード会社が勝手に発売を決めた、作られたデビュー曲なのだ。
確かにMVの装いが不思議ちゃんチックで椎名林檎とは違和感が否めない。
当時流行ってた川本真琴風ゆるふわちゃんとして、レコード会社は売り出したかったのだろうな。

そんな違和感ある売り出し方をあざ笑うように、
「歌舞伎町の女王」で鮮烈な再起動し、大ヒット。
続くアルバム「無罪モラトリアム」では、「幸福論」は拡声器で歌うバンク風に大幅に改変されることになる。
偽りのデビュー曲を封印したかった、そう考えるのは邪推だろうか。
でも、僕はこの「幸福論」シングルバージョンが好きなんだ。
彼女の素顔が垣間見れるような気がして。

椎名林檎の特徴は「仮面を被ること」 極めてエロティックな内容の歌詞なのに、曲調に騙され口ずさみたくなる。
例えば「歌舞伎町の女王」、別にあの曲は、自身の体験を歌ったものじゃない。なぜなら、彼女は新宿駅東口を出たことすらないのだから。
僕もインタビューでそのことを聞いてたいへん驚いた
インタビューやライブのMCでの彼女は、大変上品で丁寧におとなしくて、曲の大胆不敵な感じとは全く違う印象を受ける。
でも椎名林檎の私生活を覗いてみると、不倫からの略奪婚。授かり婚。離婚、事実婚。そして度重なる整形。 彼女の内面は大きく揺らいでるような気がして、どっちが素顔なのか見えない。
きっと仮面を被ることが上手なのだろう。
上記の言葉は、別に皮肉で言ってるわけでもない。
仮面を被るというのは自らを何らかの役に投影させて、あるいは悩んでいる僕らを演じられる力の現れなので、最大限の賛辞なのです。
だからこそ、曲の一つ一つが身を切ったような生々しい感覚を持ち、僕らの心に響いてくる。

何枚もの仮面を上手に着こなす、まさに仮面の女王。
それは、嘘をついて、周りに合わせて、傷ついても傷ついていないふりをする僕らとおんなじだ。
でも唯一、他人が用意した仮面を被って「幸福論」を歌ったときだけ、仮面の下の素顔が見えた気がするのは気のせいだろうか。
「でんでんむしのかなしみ」(新美南吉)感想
最近とみに涙もろくなったなぁと感じる。
映画でも小説でもふいに落涙してしまうし、
お酒の席で誰かの身の上話を聞いてるだけでも泣けてきてしまう。
思い返せば、泣くほど悲しいことではなかったりするのに。
大人になると様々な悲しみに触れることがある。
例えば自分の中で、あるいは他人の外で。
もしかしたら人が抱えられる悲しみの量というのは決まっているのかもしれない。
抱えた悲しみを減らすことができず、まるでコップ一杯の水のように、あふれた分だけ涙に変わるような気がする。
今日はそんなあふれた悲しみの童話を紹介したい。
「でんでんむしのかなしみ」(新美南吉)
一匹のでんでん虫は、ある日気づく。
それは自分の背中の殻に悲しみが一杯詰まっていること。
だからもう生きてはいけないのでないか、と。
「ワタシノ セナカノ カラノ ナカニハ カナシミガ イツパイ ツマツテ ヰルデハ ナイカ」
コノ カナシミハ ドウ シタラ ヨイデセウ。
そこで、友達のでんでん虫に相談しに行くのだけど。友達はこう説明しした。
「それはあなただけではない。私の背中の殻にも悲しみが詰まっている」と
「アナタバカリデハ アリマセン。ワタシノ セナカニモ カナシミハ イツパイデス。」
でんでん虫は、別の友達、また別の友達と訪ねていき、同じことを相談するのだけど、帰ってくる言葉はすべて同じ。
そこでようやくでんでん虫は気づくのです。
「悲しみは自分だけではない。誰しもの背中の殻には悲しみが一杯詰まっているのだ」と
この話は、でんでん虫が悲しむのを止めたところで終わっている。
私の悲しみは私自身で背負わないと行けないことに気づくことがこの物語の主題だ。
「カナシミハ ダレデモ モツテ ヰルノダ。ワタシバカリデハ ナイノダ。ワタシハ ワタシノ カナシミヲ コラヘテ イカナキヤ ナラナイ」
自分の内の悲しみに気づいたとき、誰かの悲しみに触れたとき、いつもこのでんでん虫のことを思い浮かべてしまう。
でんでん虫の小さな背中に少しずつ溜まっていく悲しみ。次第に自分の殻を破ってしまいそうに、自分を押しつぶしてしまいそうになる、暗い悲しみの固まり。
人間誰しも、背中の殻には悲しみがいっぱい詰まっているのだろうと思う。
思い悩んでいる人はもちろん、明るく振る舞っている人も、実は殻の中には、悲しみが詰まっている。
子供だって中高生になれば、もう溜めきれないくらいに悲しみを抱えているのだと思う。
悲しむことを止めたでんでん虫は、何を思ったのだろう。
生きることの苦しさ、ジタバタ。 それをたった原稿用紙3枚分で収めた素晴らしい作品
とても短い童話で3分で読み終わるので、お好きな方はどうぞ読んでみてください
『橋をかける 子供時代の読書の思い出』(上皇后美智子 文春文庫)感想
『橋をかける 子供時代の読書の思い出』(上皇后美智子 文春文庫)を読んだので感想を
いやーすごいなぁ、美智子様は!美智子様のお言葉に触れるのはこれが初めてだったのだけど、一瞬で大ファンになってしまった。
同書は、ニューデリーで開かれた第26回国際児童図書評議会に美智子様が寄せられたビデオメッセージを文書化したもの。*1
『読書と平和』というテーマに対して、自身の幼少期の読書経験を感じたことが、率直に平易な日本語でまとめられているのだけど、すごいよ、このスピーチは。
何がすごいって、読書を通して得られた自身の体験を、とっても平易な日本語で適度な長さで語られているのだけど、内容が深い深い。
とりあえず、凡人がいくら筆を尽くしても凄さが伝わらないので、一部引用してみる。
今振り返って,私にとり,子供時代の読書とは何だったのでしょう。(中略)
それはある時には私に根っこを与え,ある時には翼をくれました。
この根っこと翼は,私が外に,内に,橋をかけ,自分の世界を少しずつ広げて育っていくときに,大きな助けとなってくれました。
読書は私に,悲しみや喜びにつき,思い巡らす機会を与えてくれました。
本の中には,さまざまな悲しみが描かれており,私が,自分以外の人がどれほどに深くものを感じ,どれだけ多く傷ついているかを気づかされたのは,本を読むことによってでした。
あ〜、どの部分を引用したらいいかわからん。どこを抜き取っても素晴らしい。
文章からは、美智子様の、深い教養に裏打ちされた鋭い感性と知性が、豊富な読書から得られた平易で無駄のない表現が、ひしひしと伝わってくる。
美智子様のスピーチで一番好きな部分はここかな。スピーチの最後の部分。
読書は,人生の全てが,決して単純でないことを教えてくれました。私たちは,複雑さに耐えて生きていかなければならないということ。人と人との関係においても。国と国との関係においても。
象徴の天皇という、誰にも正解が判らない、あるいは正解なんてないかもしれない複雑な概念。
その后としてまっとうされた、美智子様の言葉。 美智子様のように、僕もこの複雑さに耐えて生きていきたい。
ただ一つだけ、美智子様のスピーチで気になったことがある。
それは、倭建御子(やまとたけるのみこ)と弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)のエピソードに触れたこと。
タケルの命を救うために、海にその身を捧げる妻のオトタチバナ。
オトタチバナは悲劇的ではなく、むしろ愛と感謝とともに入水する姿に、強い衝撃を美智子様は受けたのだそうだ。
愛と犠牲は、本来正反対の概念のはず。それが不可分に結びつくことがある。
犠牲の上に成り立つ愛。愛の強いる犠牲。
その愛と犠牲の不可分性について
その美しさの故に私を深くひきつけましたが,同時に,説明のつかない不安感で威圧するものでもありました
と美智子様は述べられている。
愛と犠牲の不可分性、これは、美智子様自身のことだとするのは、穿ち過ぎなのだろうか。
皇室に入ることで、もし自ら表現すること、あるいは主体性を犠牲にすることがあったのであれば、それはつらすぎる。
現代に生きる僕としては、やはり愛と犠牲の不可分性は神話の世界だけであってほしいと強く願う。
誰かの犠牲の上に成り立つ愛は愛じゃない。
そういう意味で、令和の世は今以上に開かれた皇室であってほしいと思う。
皇室は今、タブーとなりつつあるように感じる。 国民からの畏敬の表れと象徴天皇制のせいなのだろうけど、本当にこれでいいのだろうか。
本来、政治的な発言以外は自由に発言できるはず。もっと皇室の人が自由に発言できる世の中になってほしい。
愛のために犠牲を強いることのないように。
*1:ちなみに、宮内省のwebページでも本インタビューは公開されているのでよかったらどうぞ第26回IBBYニューデリー大会基調講演 - 宮内庁
僕らはいつだって線を引く 「線を引く」 (柳瀬安里 2019年 兵庫県立美術館)
兵庫県立美術館で、2019年1月から3月に催された企画展。
「Oh!マツリ☆ゴト 昭和・平成のヒーロー&ピーポー」と題された一風変わった展示会で、圧倒的に良かったのは、今回が美術館デビューの新人、柳瀬安里の作品だった。
柳瀬の様々な作品の中で、一番目に引いたのは30分程度の映像作品「線を引く」*1

デモの群衆の中を、あるいは単なる道端で、道にチョークで線を引き続けるパフォーマンス。その光景をビデオに撮って上映するという作品だった。
一心不乱に線を引く一人の女性。それを映すカメラ。
人ごみをかき分け、足と足の間を縫うように、ただひたすらに線を引く。

国会議事堂前でのデモ、アベヤメロ!のシュプレヒコール。
その熱狂した群衆の間を抜ける線。
まるで賛成派と反対派を分断するかのような線。
線を引く彼女に対する反応は様々だった。
驚く人や笑う人、意図を質問する人、職務質問する警察官。
でも不思議と怒る人はそんなにいない。

おそらく、作品のテーマは分断。
僕らはいつだって線を引く。
自分と他人の間、家族とヨソの間、男女の間、国家と国家の間、思想の食い違う人との間に。
とくに根拠もない恣意的な線をダラダラと。
途中警官に止められ、チョークで道に線を引くことを断念するのだけど、今度は指でなぞって線を引く。

線が見えなくても夜になっても境界線が完成するまで、線を引く。
そうして出来上がった環をみて、柳瀬安里は安堵の表情を浮かべる。
あぁ、これってまさに僕らが日常的に行ってることとおんなじだ。
だから線は見えなくてもわかる。
僕らはいつだって線を引く。
線を引いて完成した境界線で得られる安心感。
進む分断。
本当にこれでいいの?作品からそう問われているように思えてならない。
*1:なお、本作品は撮影可能でしたのでブログで使用いたします
意地を張って何が悪い 『宇宙よりも遠い場所』感想(2018年アニメ)
2018年のアニメ『宇宙よりも遠い場所』(通称:よりもい)を見たので感想をば。
最高に面白かった。 2周見たけど、もう一度見たくなるほどよいアニメだったなぁと。

あらすじをざくっと書くと、未成年の4人組が、南極観測隊員になるべく奮闘する物語。
こう書くと、ゆるふわ日常系の明るい作品と勘違いされてしまいそうなのだけど、物語には現実がきちんと描かれている。
まるで重しのように。
物語に登場する4人は、僕らの世界にもいるような普通の女の子たち。
それは、アニメでお決まりの類型化された少女の姿ではなくて、「僕らの世界と同じように」、重たい現実を背負っている。
自分の意思で前に進めない「玉木マリ」

南極で母が行方不明となっている「小淵沢報瀬」

他人との関係を疲れ、学校をやめた「三宅日向」

友達が今まで一度もいなかった「白石結月」

排水できずに溜まっている洗面所の水のような、ネバネバした不快な部分。
そういった淀みをを隠して明るく振る舞っている4人組
そんなところを含めて僕らと同じような存在だと感じる。
彼女たちだけじゃない。
周りの人からも、悪意を向けられたりする。
南極を目指す主人公たちをあざ笑うクラスメイト。
罪悪感を晴らすため、友達のふりをして近づいてきたクラスメイト、などなど。
人間の嫌な部分が、物語のところどころに影を落とす。

でも、そういった現実の重しを、人間関係の淀みを、彼女たち四人組は跳ね飛ばして南極へと突き進んでいく。
その姿がとてもグッとくる。
暗い部分を吹き飛ばす方法、それは「意地を通す」こと。
「意地を張って何が悪い」 小淵沢報瀬は言う。
誰かとぶつかっても意地を張って、問題を抱えても意地を張り続けて、失敗しても後退しても思いをぶつけていく。
重しのような現実が、淀みのような人間関係が、堰を切るまで、何度も何度でも。

それは主人公たちが乗り込んだ砕氷船と同じだ。

南極の周りにある分厚い氷を割るために、船体を乗り上げて船の自重で氷を割る。

後退と前進を繰り返し、鉄の板のような塊が割れるまで、何度も何度でも。

たどり着いた南極は、まるで大人の世界だ。 夏でも0度を超えない平均気温。
ひょっとするとすぐ死んでしまうような過酷な自然環境。
自分一人では生きられない。誰かと助け合うことを強制される世界。
だけど親や先生、友人から支配されている時よりも、ずっと静かで、穏やかで、自由だ。

誰かに笑われたって意地を張って生きていきたい。
そう思えた素敵な作品でした。
自分の重しを利用して、分厚い氷をぶち破っちゃえ
『たんぽぽ娘』(ロバート・F・ヤング 河出文庫)感想
- 特別急行がおくれた日
- 河を下る旅
- エミリーと不滅の詩人たち
- 神風
- たんぽぽ娘
- 荒寥の地より
- 主従問題
- 第一次火星ミッション
- 失われし時のかたみ
- 最後の地球人、愛を求めて彷徨す
- 11世紀エネルギー補給ステーションのロマンス
- スターファインダー
- ジャンヌの弓
- 全体を通して
特別急行がおくれた日
河を下る旅
エミリーと不滅の詩人たち
神風
たんぽぽ娘
彼女はまっすぐに歩いてきた。その目には見慣れた不安の色があった――原因を知ったいま、正視するにはあまりにも痛々しい。見守る目のなかで、彼女の姿がぼやけた。盲いたまま、妻のところへ歩みよる。近づくにつれ、視界がふたたび開けた。彼は手を伸ばすと、はるかな時を超えて、彼女の雨に濡れた頬にふれた。何もかもが終わったと知ったのだろう、彼女の目から不安は永久に去っていった。二人は手をとりあって、雨の中を家路についた。
荒寥の地より
主従問題
第一次火星ミッション
失われし時のかたみ
最後の地球人、愛を求めて彷徨す
11世紀エネルギー補給ステーションのロマンス
スターファインダー
ジャンヌの弓
全体を通して
短編の延長で長編を読むことはおすすめできない
長編全体を読むと少女愛ばかりが目立ち、それとは対象的に成熟した女性への憎悪が全面に押し出されてくる
アラブの少女といちゃいちゃしているだけでページが過ぎていき
結論として、ヤングの長編について断言できることは「すべて壊れている




